田園の歴史

長崎市浜町の「新天通り」に戦後まもなく店を構え65年が過ぎた「田園」。
甘味処、パン屋、飲み屋、談話室、キャバレー、Bar、スナック…と変遷し、
現在では音楽好きがどこからともなく自然と集まるMusic Barです。
周りの風景やお店が次々と変わっていく中で、長崎の街とともに歩み、人々に愛され続けてきました。
田園にはお店の歴史を物語る写真たちがあります。

サロン田園

昭和30年頃

(↑美人でインテリのホステスばかりと評判だった「サロン田園」)

「田園」の名前は初代オーナーが好きだったベートーベンの交響曲第6番『田園』に由来しています。 OPEN当初、戦後間もない貧困と混乱の中の昭和20年代には茶房として、その後クラブ・スナックとしてまさに時代と共に進化し続けてきました。

昭和25年頃

(↑昭和25年頃の写真)

長崎にクラブが少なかった時代、夫婦で「田園」を始めた初代のママ:英子は
「当時は本当にいいお客様ばかり、長崎の著名人にもよくお越し頂いていたんです。
ホステスもインテリばかりで、本当に上質なお客様に恵まれいたと思います。
このお店を開いてもぅ60年が経っただなんて感無量ですね。うれしいです。
でもね、案外60年と言うのは長いようで短かったわ。あっと言う間に感じます。
お客様や従業員、家族や仲間に感謝です。」
と語ります。

昭和30年頃

(↑昭和30年頃の写真)

昭和30年代に入ると「キャバレー銀馬車」「クラブ古城」など長崎の夜はクラブ・キャバレーの全盛期でした。街には陽気な酔っ払いが気持ちよさそうに闊歩し、馴染のお店をハシゴして飲み歩く、そんな時代だったのです。

昭和40年代

↑看板には「Salon田園」の文字(昭和40年代頃の写真)。

初代オーナーの息子:英人(現 オーナー)は

昭和42年

(↑少年時代の英人[昭和42年頃])
「当時は「思案橋」も開けてきていた頃なんでしょうけど、仕事終わりの三菱の方達が乗った船が大波止に着くとそのまま浜の町辺りまで流れてきては飲み歩き、
もぅ夜中でも人と人の肩が触れ合う程の盛況ぶりだったと聴いています。
私が幼い頃の「新天通り」はちょっと近寄りがたい大人の雰囲気だったんです。

岡政

(↑長崎の伝説のデパート「岡政」その後「博多大丸 長崎店」となった)
浜の町に来ても連れて行ってもらえるのは「浜屋」とか「岡政」の屋上遊園地ぐらいで…、
父や母からはお店はもちろんこの通りにすらあまり連れてきてもらえなかった記憶がありますね。」

と幼いながらの印象は鮮明です。それもそのはず、当時の新天通りには通り1本に30軒を超えるほどの飲み屋さんが軒を連ねていたのです。

昭和40年代に入るとクラブ全盛期も過ぎました。
「田園」も世代交代。平成の時代に入ると、長崎の夜の街の景色も随分変わりました。
「田園」はより音楽を中心としたスタイルへとカタチを変えて、ジャンルを超えて様々な音楽人たちが集う店になりました。2007年9月2日には「田園60周年還暦LIVE」を大々的に開催、常連さんや音楽好きが集まる華やかな一夜となりました。
「昔、田園で弾いていたんだよ!という人がこれから沢山でてくれれば嬉しいですね。」
音楽好きのオーナー英人とスタッフの想いが今夜も田園に灯りをともします。
これからもこの場所で、長崎の街とともに。





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